FC2ブログ

S.Asada

ネコと趣味

TOP >   >  なつきの思い出

なつきの思い出


にゃん猫が死んだ事を書いて父や息子の事を書かなかったら叱られそうなので、書きます

三男のなつきが死んで10年以上になる。この子はやや特殊な子で馬鹿とも言いきれないが能力の指向性が強く、弱い面の能力は全く人並み以下だった。かといって指向性の強い方面の能力が人並みだったとも言えないけど- - -  みもふたもない

家族からも嫌われ、可哀そうな子だったと思う。家族と同居が無理っぽかったので中二の時に私の母にあずけた。そして高一の夏休みまで姫路で母と暮した。この間のなつきはとても生き生きとしており、無理してでも母と同居させたのは正解だったと思っている。母は全く子供を押さえつけるようなところが無く自由にさせていた

高校は私立(仏教系)の市川高校になり、スクールバスで元気に通学していた。親友もでき、これまでとは全く違う人生が開けたような気分だっただろう。 高一の夏休みは思いっきり楽しんだようだ。 親友の家に入り浸り自転車を乗りまわしていた (当然、 勉強など全くせずに ! ! ) 

しかし高一の夏休みが終わったころ、腰痛を訴えだした。彼いわく 「自転車の乗り過ぎだと思う」。 16歳の若者がオジン臭い事を言っているわい、と軽く聞き流していたが、 これ以上休んでいられない、 と無理して登校したものの、 とても教室の移動や階段の昇り降りができる状態ではなかったらしい

近くの医者で見てもらうと骨には特に異常がなく「座骨神経痛」と診断された。しばらく自宅療養していたが、強打や転倒をしたとかでもないのに突然足の骨が折れた。 場所は大腿骨の骨盤との関節部だ

若い子がこんな骨折をするなんて、あり得ない。 何か大きな病気が隠れていると最初の病院 (日赤病院) で言われ、 しかしそこはベッドの空きがなかったので新日鉄病院に移り詳しい診断を受けた。その結果、 骨シンチグラフィで見ると腰椎をはじめとして足や肩や頭蓋骨等あちこちに集積が見られた

MRI画像では腰椎の一部が潰れかけていた。約2週間くらい前のレントゲン写真では問題無かったのに - - - 。 医者の見立てではガンの一種 (ユーイング肉腫?) だろうとのこと。既に全身転移と言って良い。原発部位がどこかさえ分からない様な状態だった。 普通に考えれば完全な末期ガンだ 

明石のガンセンターに組織を送りガンの種類を特定してもらった。ユーイング肉腫の仲間のPNET(ピーネット)と呼ばれるガン(primitive neuroectodermal tumor) 原始神経外胚葉性腫瘍 と判明した。ガンの種類を正確に特定しないと適切な抗ガン剤治療ができないらしい

このガンはさまざまな症例があるが、通常の骨肉腫の様な塊を作らず、骨の組織をガン組織が置き換えていく事が多い。置き換わっていくだけなので骨の形状はあまり変化しないが、ガン細胞での置き換えが進行してくと軟らかく脆くなって折れたり潰れたりする。 外観形状の変化が少ないので普通のレントゲンでは分からない

これの患者は主に成長期の子供で200万~300万人に一人らしい。こんな病気にかかるのは宝くじの1等に当たるよりも稀であり、通常ならばリスクにカウントする必要が無いようなものだが、いくら稀でもやはり当たる人はいる

明石のガンセンターでは抗ガン剤治療で10%弱の治癒が期待できると言われた。ホスピスも考えていたが、10%近くも治癒する可能性があるのならと治療をお願いした。この時までは100%無理だろうと思っていたし、 抗ガン剤治療は身体を痛めつけるだけだという否定的な意見の人もいた

このガンは比較的抗ガン剤が効きやすいので、まず最初に骨髄細胞(末梢血幹細胞)を採取保存しておき、次に骨髄細胞まで死んでしまうほどの強烈な抗ガン剤投与でガンを殺してしまう。その後、採取保存していた骨髄細胞を身体にもどして造血組織の回復をはかる。白血病の治療と似ている

すぐに転院して治療に入る事になったが、転院直後からガンによる症状がいたるところに出て来だした。下肢のマヒ,発熱,下血,etc - - - 医者はそれらの対策に毎日振り回されていた。ある程度身体の状態が安定してからでないと前記したような強烈な抗ガン剤治療には入れない

医者が最も苦労されていたのは原因不明の大量の下血。小腸からだろうとの目処はあったようだが、小腸は長いので場所が特定できないと手術に踏み切れない。大量の輸血を受けながら何日も検査を続けてようやく場所が特定され、手術となり、これについては一応解決した。患部の小腸約15cmが切除された。原因ははっきり分からなかったらしいが、精神的ストレスも含めればガンがからんでいる事は間違い無いだろう
 
普通の状態なら開腹手術で小腸の一部を切除、 などと言えば、 それだけで大騒ぎだが、 なつきの場合は大事の前の小事、 即決即断即実行だった  

通常のガンならば症状のステップアップは数ヶ月単位で進行していくが、なつきの場合は毎日の様に症状が進行して行った。PNETは進行が早いと言われているが、なつきの場合は特に早く、通常のガンよりも100倍くらい早いとのこと。 それは大げさとしても数十倍の進行速度だということは実感した

週に1回程度MRIを撮ったが、見るたびに骨のガン化が広がっていく。そのために脊椎の神経も侵されていく。最初は下半身が動かなくなった。それが段々上半身に移動していく。だんだん手もしびれて動かなくなって行った。早く抗ガン剤治療に入らないとガンとの競争に負けると焦った。呼吸や心臓を動かす神経がやられるのも時間の問題だろう

身体が動かなくなっていく事をなつきはとても不安がり「これが動かなくなったら最期だ」と残った右手を一生懸命握ったり開いたりをしていた。彼に言う適切な言葉は思い付かなかった。「もうすぐ治療が始まるから、それまで我慢しろ。別に手が動かなくなくなってもバーさんがなんでもやってくれるから心配するな」などと冗談っぽく軽く言った。適切だったかどうか分からない。そんなことをしても無駄だという事を知っているけれど伝える事はできない 
 
それから何日か後には残った右手も動かなくなった。 彼の不安感は想像も出来ないが、私が何が出来るわけでもない。 回りがおろおろしていたら余計に不安だろう

こんな状態が転院後1ヶ月間程度続いただろうか。ある日の検査でガンが脳に転移したことが判明

脳に転移すると抗ガン剤が届かないので、抗ガン剤治療の対象から外れると告知された。ガン化の範囲が広いので放射線療法の対象にもならず、あとは事実上死ぬのを待つばかり。転院させられるかと思ったが、ガンセンターは最後まで面倒を見ると言ってくれた。感謝

実はそのまま治療を打ち切るのはあまりにも心残りだったので医者に 「このガンは極端に増殖速度が高いから放射線感受性は当然高いだろう。 もしかすると造血細胞より弱いかもしれない。 全身3Gy(ぎりぎり死なない)くらいの放射線照射はどうだろう」 とか相談してみたが、当然却下された。 それ以外にもPNETの治療情報をインターネットで調べて提案したりした。 NET時代になると素人でも結構高度な知識を持つから医者もやりにくい(めんどくさい)ことだろう

鎮痛剤はモルヒネを皮膚から吸収させるタイプ。 これはいくらでも強くできるとのこと。 これに加え点滴によるセデーション(眠らせる)で苦しさから開放する。 意識はなくてもよいから、最も苦しまない方法をお願いした

発病してから約2ヶ月半の2003年11月26日になつきは死んだ。最後は呼吸が5秒に1回になり10秒に1回になり15秒に1回になり - - - だった




 享年16歳  浅田 夏紀 (写真は中2の時)

なつきはそのだらしない面やずうずうしさを嫌う人がいた反面、少し不思議だったがとても可愛がってくれる人が多かった。学校の先生や特に高一の時のクラスメイトなどは本当に親しくなり、こんな親友関係もあるのかと感心した。小学校の時の用務員さんは毎日の様に朝御飯を食べさせてくれた。私の弟もなつきをとても気に入っていた。なつきが死んだとき、向かいの家のご主人(大学教授)が「この子が一番好きだった」と言って泣いてくれた

看病は私の母が主にやってくれた。病院に泊まり込みでの付きっ切りの看病だ。母の妹のなるみさんらも交代で看病してくれた。そういえば母の兄弟(9人)は本当によい人ばかりだった。でも母の兄弟もだんだん少なくなり、母(昭和2年生まれ)以外では2人になった。 この2人は母の妹で母より10歳以上若い

彼が病気にならず大人になっていたらどうなったかを時々想像してみるが、なかなかイメージが湧かない。でも彼の得意な面を伸ばして生きて行っただろうと思いたい。 恐竜が大好きだったので、その道の研究者になって世界中に出かけて行ったと思いたいが実際の可能性としては愛すべきフーテンのトラさん風になったかも。するとさやかがさくら?  ← クリック

近くの医院で最初の診察の時にこの病気を見つけてくれなかった事に文句を言いたがった人もいたが、それは無理だっただろう。この病気の初期はレントゲンで見つけるのは困難だ。この診察で様子見の自宅療養を言われたのは仕方ない。もちろんこの段階で骨シンチやMRIを使っていればガンと分かったかもしれないが、初診の16歳の腰痛にそこまでする医者はいない

しかし結果的に骨折という事態になるまで2週間ほど放置する事になってしまった。 このガンの増殖速度は通常の約100倍近いそうだから、仮に50倍だったとしても通常のガンなら1~2年間放置したのに匹敵する。だから手遅れになったんだと言えない事もない。しかしもし最初に見つかっていたとしても、こんなに爆発的に増殖するガンにはたぶん勝てなかっただろう。 こんなガンに対向しようと思ったら、 発見してから数日以内に診断を完了し治療に入れるくらいの体制が必要だろう。 なつきの様にガンに先手を打たれたら、 反撃は難しい  先手必勝なのだ

ユーイング肉腫やその仲間を発症する子供には共通する染色体異常があるとネット情報で見かけた。だから将来的には遺伝子診断でこの病気のリスクも早期発見できるようになるだろう。 そうなれば早期の治療も可能になるだろう

なつきの最後のとき、呼吸がだんだん止まっていくのを見て「人口呼吸器でもなんでも付けてくれ」と医者に頼みたくなる。予め人工口呼吸器は拒否しておいたが、いざその場になると決断が揺らぐ。たぶん誰でもそうなるとおもう

それでも死は全ての苦痛からなつきを開放した。生き物としての喜びも同時になくなるが、喜びよりも苦痛があまりにも大きかったので、安らかになった顔を見て「良かったね」と心で思った ← クリック

死後、医者から研究のために病理解剖の申し出があった。母は反対だったが、私は少しでも役に立つのならと思い承諾した。そこで分かった直接の死因は肺に転移して肺全体に広がったガンによる呼吸障害だったようだ

肺の表面には無数の粒々状のガンが見られたらしい。抗ガン剤治療をあきらめてからMRIは撮っていなかったが、その直前では肺への転移は見られなかった。なのに1ヶ月も経っていないのにこの状態だ。凄まじいとしか言いようがない

その日は家につれて帰り、次の日に葬儀場(大和会館)に移し、通夜,告別式を行なった。この葬儀場はガンセンターとほとんど隣接してあり斎場も近い。ベルトコンベア式みたいで出来過ぎじゃないか?とは思ったが、確かに便利だった

-------------------------------------------------------------------
私の父について

私の父はなつきの約4年前(1999年4月)に72歳で亡くなった。 めずらしく体調不良で自宅で寝ていたらしいが、 原因不明の症状が悪化したので往診の医者の勧めで入院することになった。 夜だったが救急車は呼ばず、 自分のクルマで私が父をクルマまで抱いて連れて行き、 病院に運んだ。 病院でも看護婦さんと二人で抱えて階段を登って病室に入れた。小柄なのに結構重くて、 ホントに疲れた(この病院にはエレベータが無いし、スタッフもあまりいないのだ) 

病院は姫路でも山奥の中国自動車道に近い夢前町前之庄(ゆめさきちょうまえのしょう)にある小さめな病院だ。 病室からは桜の花が綺麗に咲いているのが見えた。 今から思えば最後をすごすには最高に良い場所と季節だった。 入院すると直後は調子良さそうに見えた。 しかし体調不良の原因を調査しても、 なかなか原因が分からなかったようだ。 そこで栄養状態を改善するために高栄養の点滴をしたところ、 肺にガンがあったらしく、 それが一気に増殖して危険な状態になったらしい。 その数日後、 父は死んだ。入院してから1週間程度だった

あまりにもあっけなさすぎだ。 なつきの場合も少なくとも2~3年の長期戦で望んだのにあっけなく2ヶ月半ほどで亡くなったし、私の家系の男はあっけない。 人に迷惑をかけるのが嫌いな父らしいとも言える。 父の葬儀は姫路の町の中にある大和会館で行なったが、生まれ故郷の大原町から多くの友人たちが遠路わざわざ来てくれた。 父は成功した人ではなかったが、 決して不幸ではなかっただろう。 母も本当に大事に思っていたようで、 良い夫婦だと思った

肺ガンもタバコのせいかも知れないが、 父もタバコを吸っていた結果がこれだったとしても後悔はしなかっただろう。 戦争中や戦後直後は本当にひもじかったらしく、 タバコを吸っている間だけひもじさを忘れる事が出来たとよく話していた。 私が子供の頃は 「しんせい」 という銘柄だったと思う。 たまに贅沢でピースも吸っていた
 
よくピースの箱でカバンのおもちゃを作ってくれた。 2つ折りにして端同士を結合させ、 アルミ箔紙を糸状にしてショルダーベルトみたいにしていた。 その後セブンスターに変わったかな?私が16歳で家を出てからはタバコを吸っていたのかどうか思い出そうとしても思い出せない。 貧乏したからやめていたかもしれない。  子供の頃のイメージには強く残っているのだが
  
いずれにしても今は昔、、、 いにしえの記憶は薄れつつある、、、 正直なところは父にあまり関心をもっていなかったからかもしれない。 まあ父親というのは多分どこでもそんなものだろう? 立場が変わって父親としての私もそうだと思うし 

--------------------------------------------------------------------------------

私の母について  2017/07/03

享年2016年09月06日。母が無くなってもうすぐ1年がくる。母の事は別の所でも書いたが、今にして思えば「良い母親」だったのだろう。弱い面もいっぱいあった人だったけど、だからかもしれないが本当に優しい人だった。おせっかいともいう。

私の育った環境では男は毎日ぶらぶらしていた。女は一生懸命働いていた。母や叔母さん達は私の面倒を感心するくらいよく見てくれた。だから二十歳ころまでの私の男性,女性感の基本はそんなものだった。そんな勘違いから若干ひどいめにあった気もする。 あー勘違い

でも父や母やその周りの人たちは、この世では特別な存在だったのだ。他では男も結構ちゃんと働いていているではないか。女だってぐーたらもいっぱいいるし。若いころというのは世界が狭かった。









スポンサーサイト



コメント






管理者にだけ表示を許可