2015-02-07 (Sat)✎

ホントの事を言ったらお利口になれない - - - でも言いたい
過剰医療に付いての私の本音
母(S2/05月生まれ)や叔母達が昔よく言っていた「歳をとってもぼけたり寝たきりにはなりたくないなぁ。元気なままぽっくり逝きたい」
しかしこれは大部分の人がそう思っているに違いない。私もそうだ。しかし人生ままならない。母は約7年前から怪我が原因で車椅子生活(車椅子の操作もできない)を送っており、かなりボケている。もう以前の人格は無いと言って良い。現在は特別養護老人ホーム(要介護5→実際は3程度だと言う意見もある)で生活している。元気な頃の母が現在の自分を見たとしたら、たまらなくいやだろうが、現在の母にはその様に感じる能力も残っていない
何故こんな生活になってしまったかというと2009年4月22日に母が山へお花を取りに行くと言って出掛けた。そして山道を自動車で通りがかった女の人が、道路脇のU字溝に倒れている母を発見。119に通報された。症状は頭蓋骨の陥没骨折と肩の骨折及び外傷。山の道路脇にある急斜面上に生えている小さな花木を抜こうとして転落したのだろう
病院で最大限の救命処置をしていただき、何とか命は助かったが重い後遺症が残って現在は先に述べた様な生活をしている
しかし高度医療で生きのびた事は母にとって幸せな事だっただろうか?転落の発見が遅れて、そのまま天国行きだった方が幸せだったのではないか?→これは私の本音で言えば疑問符を付ける必要はなく、間違いなくその方が幸せな生涯だった
医療側も何がなんでも最大限の救命処置をする、というのは正しいのだろうか?重い後遺症が残る可能性が高い場合、年齢等を考慮したら「過剰な医療はしない」という看取りも必要ではないか?
これは実際の現場ではとても言いにくい事。医療側にとっては全力の救命処置をしないとヘタをすると犯罪者にされかねない。家族側にとっても「過剰な医療はしないでください」はとても言いにくい。親戚,兄弟などから何と言われるかわからない。本人が望んでいた事は良く分かっているつもりでも、それを叶えるには障害が多い
これと同様な事は多くの終末期医療にもよく現れている。たいていの人は通常の死期を高度医療で1~3ヶ月間延長することができる。しかしこれは人口呼吸器を付けて点滴等で栄養を補給し、場合によっては心臓の補助もする。本人は意識が無い状態だから、本人にとってはきっと大きな迷惑だろう。「安らかに旅立たせてくれー」と言いたいのだろうが、無理やり足を引っ張って旅立ちを遅らせている
その医療により回復して次の人生が開けるのなら高度医療で命を助けるのは当然の事だ。それが本人のためでもあり社会全体のためでもある。しかし死ぬ事が確定している患者の命を本来の死期から1~3ヶ月遅らせるだけであり、その後回復する可能性が全く無い場合はどうなんだろう
そのために1日5~10万円もかかる高度医療を使う。本人は迷惑だし費用だって数百万円ぐらいかかるだろう。家族にとってもその間の経済的精神的負担は非常に大きい。経済的負担の大部分は健康保険から支払われるが、回り回って消費税や保険料が上がるという形で自分達の負担になることには変わりない
自分だけの負担になるのならまだ良いが、子育て世代や貧困層の負担増にもなるのだから、よくよく考えなくてはならない。自分たちのわがままではないかと
せめて本人に意識でもあれば救われるが、人工呼吸器を付けていれば意識は無い。無為に生きているだけだ
この問題も先のテーマと同じだ。医療側にとってはたとえ先の無い老人や末期ガン患者であっても最高の医療でベストな延命処置をしないと家族から何を言われるかわからないしヘタをすると犯罪者にされてしまう
家族にとっても「人口呼吸器は付けないでください」「胃ろうや点滴でいたずらに延命するのはやめてください」はとても言いにくい事。罪悪感を感じる人もあるだろうし、変に誤解されて親戚等から何か言われるかもしれない
しかし終末期でその人の人生の尊厳を傷つけて全体の価値を大きく損ねては可哀そうだ。終末期医療はいかに長生きさせるかではなく、いかに人間の尊厳を保てる内に楽に素早く旅立てるように支援する事が大事だと思う。そしてこれはみんな本音では分かっている事だと思う
先の無い人を無為に無理やり生かす事に数百万円も使うくらいなら、子育て世代の支援や教育や産業育成につぎ込んだ方が何万倍も有効な金の使い方だということはみんな良く分かっている。分かっているのにできないのは政治の責任だろう
その場になると過剰医療を断るのは心情的に難しいと書いたが、元気な時に対処方法を事前に考えておけば冷静に対処でき、最善の方法を選択できるだろう。全ての人は元気な間に自分の終末期医療の大枠を指定しておくべきだ。治る見込みの無い大病や大怪我などでは臓器提供の意志表示に加えて人口呼吸器や胃ろうなどの医療を拒否できる選択肢を持つべきだろう。大きな後遺症が残る可能性が高い場合にも過剰医療はしないで自然にまかせてもらう選択肢を選ぶ権利を持つべきだ
もっと積極的な制度も考えられる。例えば健康な時に将来の胃ろうを拒否する契約にすれば健康保険料が5%引きになる。 治る見込みの薄い情況での人工呼吸器を拒否すれば更に5%OFF、 脳死での臓器提供に応じれば、更に10%OFF - - - と言う風にすればみんな過剰医療について真剣に考える様になるだろう。 なんといっても保険料が安くなるのは大きな魅力なはずだ。 健康保険制度というのはこの様な工夫をもっとするべきだと思う
この様にどこまでの医療を希望し、そのためにどれだけの負担をするかは本人が元気な間に自分の意志で決めておくべきだ。 ちなみに私の場合にはケガ等で人格が変わる様な後遺症が残る可能性が10%以上ある場合や自分で日常生活もできないほどの身体的障害が残る可能性が10%以上ある様な場合は高度医療で無理やり生かさないで下さい。ガンなどで終末期医療を受ける場合は、延命処置は拒否し緩和治療のみを希望します。痛さ,苦しさを感じなくて済むのならば、セデーションでずっと意識がなくて結構です。安楽死が許可されていれば希望します。 これらの処置を強く希望します。臓器等は品質が悪すぎると思うけれど、もし使える物があれば何でもどうぞ持って行ってください。なにも残らなくても結構です
死後は通夜も葬式も不要です。火葬しても骨はぜったい拾わないで下さい。あとに残った人が処分に苦労するだけだから。お経も墓も仏壇も位牌も不要です。戒名などという変な意味不明の名前は絶対に付けないでくださいね。私の名前はずっとこの名前で結構です
長生きについてのタブー
長生きは良いことか?宗教的、心情的な解釈はべつにして、純生物学的観点からは良くないことだろう。人には自然に定まっている適正寿命がある
たいていの生物は子孫を残すと速やかに死ぬようにできている。人の場合は超未熟児の状態で生まれてくるし成長も遅いので5~10年間は親が必要だが、それ以降は子孫を残す上で親は逆に邪魔な存在になる
人の場合の適正寿命は子作りの終了を約40歳とすれば約50歳が適正寿命ということになり、実際に自然の状態では人の寿命はそんなものだろう
なぜ子孫を残すと親はできるだけ速やかに死ななくてはならないか?これの生物学的解釈は簡単で疑問を挟む余地が無い。理由は簡単。既に子孫を作ったのに親が長生きしていると子孫の生存に悪影響するからだ
例えば鮭。鮭の場合、卵を産むともう親の役割はなくなる。もし産卵後も鮭が速やかに死なずに生き続けると空腹のあまり自分たちの卵や稚魚を食べてしまう可能性がある。すると子孫が残せない。だから子孫を残すために卵を産むとすぐに死ぬ
これはなにも鮭がこの様に最初から意図して作られたわけではない。鮭自身がそう考えたわけでもない
大昔には卵を生んだあとも長生きする鮭の家系もいただろうし、すぐに死ぬ鮭の家系もいただろう。長生きする鮭の家系は自分の卵を食べてしまう事があるために、すぐに死ぬ鮭の家系よりも子孫を残す確率が少し低い。つまり子孫を残す上で少し不利となる
これは数十年程度では決定的な差にはならないだろうが、この状態が何千年~何百万年も続くと、子孫を残す確率が少し低かった家系の鮭は絶滅してしまう
この様なメカニズムで現在では産卵後すぐに死ぬDNAを持った鮭ばかりになった
人の場合も同じだ。子育てが終わっても親が長生きする家系と子育てが終わると速やかに親が死ぬ家系があったとする。子育てが終わっても親が長生きしていると、その分多くの食料が必要になる
常に食料が豊富なら問題ないが、必ず飢饉はおとずれ、食料が極端に不足する時期がある。そんなとき、親が長生きしていると子供に回る食料が減ってしまい、餓死したり、そこまでいかなくても成長期の栄養不足で体格や運動能力が少し劣ったりする率が増える。 これではその子が将来子孫を残すうえで不利となる
しかし子供がそこそこ自立できる年齢(5~10歳)で速やかに親が死んでしまう家系の場合には親が食料を消費しないので、そのぶん子供の食料が増え、餓死する確率が減る。また運動能力や体格にも良い影響がでる。つまり子孫を残す上で有利だ
この子孫を残す上での少しの有利さの差が数千年~数十万年と世代を重ねると親が長生きする家系は絶滅してしまい、親が速やかに死ぬDNAを持った家系ばかりになる
例えばA家系の子孫を残す確率を0.999とし、B家系の子孫を残す確率を1.001とすれば、A家系の子孫は最初100人だったとしても10000世代後には0.0045人に減る。つまり絶滅。逆にB家系は10000世代後には約220万人になる
だから我々は50歳を超えると色々な原因で速やかに死ぬようなDNAをみんな持っていると思って良い。これが人の本来持っている寿命であり、現在の80歳を超えるような平均寿命は医療の進歩と社会システムによる老人保護により作られたものだ。自然ではない
私は本来、自然に決まっている寿命を受け入れて生きるのが一番幸せなのではないかと思っている。たとえば産卵が終わった鮭をつかまえて保護し、高度医療で長生きさせても、たぶん鮭は幸せではない。命の輝きが失せる
こんなことを言っている私も適正寿命をかなり超えてしまっているのだが - -
しかしこれも多くの人はそう感じているだろう。特に最近は老人世代の年金や医療費,介護のために若年世代が犠牲になっている。これは子孫を残す上で不利な条件だ。事実、出生率は極度に低下している
この状態が長く続くと他の民族との生存競争に負け、 いや他民族とは関係なしでも日本民族は勝手に絶滅するだろう。早く過度な老人医療や保護を無くし、速やかに世代交代をすすめなくてはならない - - - というのが生物学的結論ではないかと思う
もちろん色々な「人権」「人道」をさけぶ人の抵抗を受けるので、困難だろう。しかし何らかの対策を考えなくてはならないのも事実だろう。このまま医療や科学が進歩していくと人は死ななくてもよくなる。傷んだパーツは交換していく事で何百、何千年と生きかねない
人が死ななくなると地球が有限である限り新しい子供たちは生まれてくる事ができなくなる。これではだめではないか?
しかしこの考えは偏狭な悲観的思考かもしれない。上記の考えは私の基本的考えの一つではあるが、全く別の楽観論ももっている。それは - - -
地球も地下や海底 ,空中を活用すればあと1兆人程度は住めるだろうし、月や火星への移民も考えられる。宇宙空間で生きていく事も可能だ。 エネルギーは核融合か宇宙太陽光発電が実現すれば事実上無限に供給できるので食料問題も無くなる。 つまりエネルギーが無限に使えれば食料も無限に作れる
地球が温暖化するのでエネルギー消費には限界があるという意見もあるだろうが、エネルギーさえふんだんに有れば地球を冷却する事も可能だ (地球にエアコンを付ける。廃熱は宇宙空間に放射する)
つまり空間的にもエネルギー食料的にも人類の増殖を抑制する要素は全て科学技術で排除可能だ
人の寿命は脳で制限され、せいぜい150年くらいだろうという人もいるだろうが、脳だってパーツ交換可能な時が来るだろう。人格とは脳という一種の生体コンピュータの中のソフトとデータに他ならない。IPS細胞などで脳のコピー品は作れる様になるのは間違いないだろう。あとはソフトウェアとデータの転送だけだ。これはシナプスの結合状態というハード的な変化も必要とするので少し難しいだろうが基本的に不可能ではない。分子,原子レベルでの3Dプリンターがこれを可能にするかもしれない
また生物脳に人格を転送する以外にも超大型コンピュータの中に転送するという方法もある。その超大型コンピュータの中には巨大な仮想空間(地球と大宇宙の詳細全て)を作っておき、そこに個人の人格を転送する
仮想現実空間で生きる感覚は、夢に例える事ができるだろう。夢は脳の中で作り出された仮想現実空間であり、さまざまな体験ができる。走る事もできれば景色も見える。痛みや臭いも感じる。この夢という仮想現実空間にいると、これが夢だと気付くのは難しい。人間の脳が作った仮想現実空間は極めて不完全であり、距離感的にも時間の前後関係もムチャクチャである場合が多いにも関わらずである
最終的には一人だけではなく、全世界の人の人格を1つの仮想空間に転送し、みんなでその世界で暮らす。地球や太陽系の寿命は100億年もないが、コンピュータ内ならばクロックを上げて1秒間が1年間になるようにすれば、10の16乗年くらい生きる事が可能になる。更に病気も災害も起こらない完全なユートピアにもできる。 そう考えるとこの方法が最もベストな気がする。しかし1000000000000000000年も生きると、さすがに生きるのに飽きるだろうか?
私は過去の人類が既に仮想現実世界への移住をやってしまった可能性を疑っている。するとこの世界は仮想現実だということになる。仮想現実世界に住んでいる人にとって、その事を見破るのは不可能だ。しかし遠くを見ようとすれば事象の地平があって百数十億光年先くらいまでしか観測できない。極微の世界を見ようとしても不確定性原理がじゃまをする。他の恒星系に行こうにも絶対行けないような距離に設定してある。 私はここに設計者の意図(記述がめんどくさいので制限をかけた)を感じる
しかしこんな話は一種の宗教だ。これを広めて行けば私も教祖様になれる?
宗教について
私は昔から宗教は嫌いだった。実証でき、再現性が無ければ信じない、少なくとも科学的理論的に妥当と思われる事でないと信じる気になれない。宗教の種はいつでもどこででも発生する。それが長く継続し成長するかどうかはその宗教の教えによるところが大きいだろう。つい最近も新たな宗教の発生過程を見てきた。オウム真理教が典型だし、他にもいくつか見られた
宗教の教祖になりうる人というのは、ある特殊な才能を持つ人間だと思って良いだろう。科学的実証主義ではなく、不確かな事をいかにも確かな事の様に他人に信じ込ませるという才能が必要だ。 過去の偉大な?教祖様もたぶんそんな人だったに違いない、 と思っている
宗教は人を幸せにしてきたか?宗教で幸せになった人もいるだろうが、不幸になったり不本意に死んだ人の方がはるかに多いのではないかと思ってしまう。これまで宗教絡みの戦争やいざこざは無数にあった。日本でも仏教系、キリスト教系で大きな惨事があった。一向一揆とかキリスト教弾圧とか。また近年は軍部や政府が天皇を神格化して一種の宗教を作りあげ、大戦を引き起こして大惨事となった。世界では十字軍あたりが大きな事件だろう。現在でもイスラム教関係で各種の争いがあり、多くの人が死傷している。宗教さえなかったら - - - と思うのは私だけか?
宗教は無知な大衆の存在下で増大してきた。しかし現在では人類はインターネットで巨大な知識を共有しつつある。この様な環境が進展していけば宗教は衰退していくだろうと期待するが、インターネットは嘘の情報を拡散させる事も多い。 そうなると逆に宗教の種を産み育てる土壌になりうる
しかし何が嘘で何が本当か? 何が有益て何が有害な知識か? の判別は非常にむずかしい。またこれのフィルターを作るとすれば、国家権力などが介入するのはいかにも良くない
いくつかの民間のフィルター製作会社が競って良いフィルターを作り、それをユーザーが選択出来るようにするのがベストか?
最近の大企業についての懸念
大手の鉄屋さんで「安全は全てに優先する」という標語があった。確かにこれは正論であり、誰も反対することはできない。しかし、誰も反対することのできないような標語はしばしば意味が無かったり有害だったりする
通常の製造現場はこれで良いと思うが、研究開発部門にまでこれを厳格に適用すると、たぶん研究開発の速度が半減以下になる。しかしそれではBRICSを初めとする外国との競争に勝てない
厳密に「安全を全てに優先」させれば何人か何百人かの研究者やその関係者が死傷するのを防げるだろう。しかしそれで他国との競争に負けて産業が衰退したら数十万~数百万人以上の日本人が死ぬリスクがある。(平均の勤労者所得が年間で1人100万円以下になれば、多分そのくらいは犠牲になるだろう)
キュリー夫妻やノーベルさんがその当時、安全安全といっていたら、あの偉業は達成できなかったかもしれない。とんでもない業績を出そうとすれば、とんでもない事もしなくてはならないときがある
TQCだとか5Sなど、色々な現場改善手法があったが、これらも研究開発部門にとっては障害になる場合が多い。ISO9001の厳密な適用なども商品開発や改良の速度を激減させる。研究開発部門は出来るだけ自由な環境がのぞましいと思う。失敗を恐れすぎると前進できない。 一見、 無茶苦茶な人に見える天才が無茶苦茶な事をする事を許容する環境が必要だろう。 天才なのか、ただのキチガイなのか見極める周囲の判断力は必要だ。 過去の例から言えば肉親や教師などが才能を見いだして徹底的に養護して育てる事が多そうだ
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