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S.Asada

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私の未成年時代


1952年(S27)4月8日生まれ。誕生日が同じ有名人はお釈迦さま。誕生年まで全く同じの有名人は桃井かおりさん

私はこれまで過去を振り返る事は少なかった。なぜかというと過去の自分が恥ずかしい、というのが大きいだろう。過去の事が頭にうかんでもすぐに無理やり消してしまう ( これって座禅と似たプロセスか?)

ここで恥ずかしさを堪えて自分の人生(0~20歳)に付いて振り返ってみる。尚、成年編はまた気が向いたら書きます

生まれた場所 旧住所 岡山県英田郡大原町古町1643  現在は美作市古町

img_5265480.jpg      うしろやまという高い山 1344m     遠くにあって晩秋から春先まで白い山だった

img_54444154781.jpg  宿場町の面影が残る町。昔ながらの建物も多い。石畳は比較的最近の整備。
 昔は普通の道で両側に溝が有った(防火用水その他?) 魚とりや船遊びの思い出
一時期、ローラースケートが流行って、よくこの道でゴロゴロ走っていたなー 

大原町には特に有名な名所は少ないが「宮本武蔵の生誕地」があるので、初めての人に自分の出身地を説明する時にはたいていこのネタをつかう。地元も観光の目玉にしたいようで生誕地近くの鉄道駅名は「宮本武蔵」になっている

電話番号は小学校のころまで大原26番!なんと二桁だった。大原町は古い宿場町で、おとなりの兵庫県作用郡の平福にも似た町だ。おじいさんが平福の奥の方の出身で、大原に移り住んで商売を始めたらしい。一代で大原ではトップクラスの商売人になったのだから、能力もあったのだろう (あくまで大原町という6000人クラスの小さな町でのトップクラスですが - - - )

しかし過去には色々な事にチャレンジしたようだ。家の蔵にはパチンコの玉が大きな箱にいっぱいあった。パチンコ屋の看板もあったが「ズスイのコンチパ」と書いてあり長いあいだ意味が分からなかった。そのころの横書きは右から左に書いていたのだった。「パチンコのイスズ」

私が0~8歳のころの家業は小さな乾物食品店(といっても当時のその町としてはトップクラス)を自営し、映画館も共同経営していた。映画館内には売店も出していた。そのため子供のころは映画は見放題でおやつにも不自由しなかった。家でおやつをもらい、映画館の売店に行ってまたおやつをもらい、時には勝手にちょうだいし、また仏壇は私のおやつ配給所だった - - -  

映画館では時々、旅の芝居が来ていたが興味はわかなかった。しかしその関係か父の女形姿の写真を見たことがある。成人映画もフリーパスだったが全く意味が分からず敬遠していた。小学生のころ、たまに売店の店番をせられたが、私はこの手の商売には向かない(接客業は全部だめだろう)と再認識するだけだった

映画館での手伝いでは売店の手伝いよりも映写機のおもりの方が楽しかった。当時の映写機は光源がカーボンアーク灯だったので、電極の消耗がはげしく常にカーボンを繰り出してギャップ調節しなくてはならなかった。そのほかの手伝いは映画終了後の掃除くらいか。この掃除は時々小銭を拾う事があり、それ目当てが少しあったが

映画館はその後テレビの普及と共に客がこなくなり、廃業となった。客がゼロなんて日もあった。跡地は10年後くらいに駐車場になっていた

少し話しがもどるが私が1歳~2歳の頃は全く混沌とした記憶しかない。全く活動的な子供ではなく、家に籠っている事が多かった。親が近所の子供に頼んで遊んでもらったりもした。粘土遊びが好きだった。いつだったか忘れたが窓から外の地面に1.5mほど頭から落下した。このとき脳の一部が壊れたんだと思う。当時の田舎では病院に行くという習慣は無かったので、くわしくはわからないが、多少壊れたのは悪かった面ばかりではないかもしれない?

小学校に入る2年前から幼稚園に入る。このあたりの記憶は夢と現実がごっちゃになっている事もあろうが幼稚園は乱暴者が支配する恐怖の世界だった。味方は先生のみだが、それも頼りない。乱暴者から逃げ回っていた記憶が残っている。恐怖のいじめ社会。今とはレベルが違う様に思う

そのころ集中的にいじめられていた○○さん。どんないじめられ方かは口にしたくない。できない。乱暴者に命令されて私も一度だけそのイジメに参加させられた。一生の不覚だった

このイジメの記憶はいまでも一番思い出したくない記憶だ。のころ何もできなかった(しなかった)自分が嫌だった。しかしこれも後になってから思えた事であり、当時の自分には人のことを思いやる余裕も能力も全く無かった

小学校に入るころにはなぜか乱暴者のボスはどこかに消えていた。そのため、かなり居心地は良くなった。しかし子分クラスは残っていたので恐怖がなかったわけでもない。小学校に入ったころは学業成績はほとんど5段階の5だったが体育は2だった。1にならなかったのはお情けだろう

そのころの子供社会には今ほど大人が関わっていなかった。近所などで上級生,下級生の入り交じった遊び仲間グループを作り、上級生が下級生を守るパターンが多かったと思う。小学校に入ったときも近所の上級生が同学年の乱暴者たちに「あいつをいじめたら許さん」とか言って歯止めをしてくれたので、このことでも多少は助かったのだろう

私は今で言えば一種の発達障害児だったのだと思う。勉強はなんとかなっても集団行動の時など人の言う事が理解し難く、周囲に全く付いていけなかった。運動能力も極端に低かった。体育の時間や運動会は恐怖だった。同様に昼の休み時間なども苦痛の時間だった。他の子たちと一緒に運動場で遊ぶなんて事にはついていけないし、仲間にも入れてもらえないから

本当に普通の子供たちがうらやましかった。勉強ができなくてもよいから普通になりたかった。普通の子供たちがうらやましかったのは幼稚園~中学の間、ずっと続いた。会話能力もほぼゼロに近かった。今でも会話が達者とはとても言えないが、そのころとはレベルが全く違う。ちなみに小~中学時代からの反動か、高校を卒業してからの10年間ほどは自信過剰気味になってしまったが、これはこれで良くなかった

小学校のころは二つ南隣の大川さん(一学年上)がよく遊んでくれた。それ以外にも三歳ほど年上の高畑さん等もいた。しかし小学校高学年になると近所で遊んでくれる人はいなくなり(仲間はずれにされ?)同級生との付き合いのみになった(平田さん,中蔦さん,鈴木さんなど)

小学校時代の友達との遊びといえば川での魚採りや山での遊びが多かった。山では小遣い稼ぎのガンピ(和紙の原料)採りもよくやった。山奥でのキノコ採りで迷子になってコワイ思いもした。それぞれの季節にはワラビ採りや木いちご,アケビ,芝栗,ドングリ,イタドリ採りなどもよく行った。また昆虫採集も夏の定番行事だった。今思えば、なにかを「採る事」ばかりだったように思う。家でゲームとかは殆どしなかった。他の子の様な野球などは無理だったし

運動能力は最低だったが、呼吸を止めておける時間が普通の子よりも3倍くらい長かったので川での水遊び、泳ぎは比較的得意だった。当時はプールなど無いので、 みんな川で泳いでいた。しかしあるとき背後からいきなり深い所に突き落とされ、不意だったので対処ができず、思いきり溺れた。川底まで沈み、川底を蹴って水面に上がり でも十分には呼吸できずにまた沈み - - - を何度もくり返した。もうダメだと思った時に何とか川底の大きな石のところにたどり着き、助かった

このときの苦しさはいまだに忘れられない。私を突き落とした近所の子は全然悪びれた様子も無く笑っていたが、こういうふざけ方は絶対にしてほしくない。NHK朝ドラ「あまちゃん」でも同じような場面があったが、不適切だと思った。本当にあんなことをしたら、そこそこ泳げる人でも溺れる事がある。突き落とした人が責任を持って助けられるのなら許せない事もないが

家業の方は父の代になると没落の一方だった。小学校高学年のころには店には他の資本が入った。つまり浅田家の店ではなくなり、雇われ店長になった。時代がそうだったから、というのは言い訳だろう。父は誰からも「すごく良い人だ!」と言われていた。友達も多かった。 悪く言えば「究極的なお人好し」だった。だからあまり商売に向いた人ではなかっただろう。だからこそ私に家業を継げとも希望しなかった 

父はその10年後くらいに友人の借金の連体保証人になり、その後その友人は逃げてしまい、 全ての借金を背負って実質的に破産した。家も無くした。 その後は姫路に移り住み、 ガソリンスタンドで働いたりしていた。 ある意味悲惨な人生だが、 みんなから良い人だと評価され、 たくさん友人がいたのは少しうらやましい

話しは小学時代にもどるが、 私の学業成績は徐々に低下していき、4年生頃が最悪だっただろう。

しかし小学校の5~6年になると、かなり学業成績は良くなった。クラスで3番以内に入り、そのまま中学校に入った。入学時の順位は8番/165人

得意な科目は理科であり、これはほぼ確実にトップを取れた(95点~100点)。校内だけでなく県北地区の数万人中でも3位以内だった。苦手は語学であり、これは平均点がやっと(60点程度)。極端な理系人間だったが数学はあまり好きでも無い。理数系とひとまとめにされるが理と数は別物だと思う。私は好きな事しかしない性格だったので嫌いな語学は勉強せずに他の科目でカバーしようとしていたが、これではトップはねらえない。今の教育制度では私の様な超指向性の人間を育てる制度があるように聞いているが、私はそれが欲しかった(平均点が良い子供より特定の分野に尖っている子供の方が実社会では役立つ?)

成績的には順調に始まった中学時代だが、しかしさぼり癖がでて来てまた成績が下がり始め、クラスで10番以内も難しくなった。しかしなぜか中学3年になるとかなり回復して中学入学時のレベルに近づいた

今考えてみると、これは私の定番のパターンだ。高校も最初は良かったが2年で落ち込んだ。しかし卒業の頃には工業高校電気科の最終目標的な資格(電検3種)がとれてしまった。これは専門教科でクラスで1番になったくらいの快挙だった。私はどうも中だるみしてしまうらしい。人生もそうなるだろうか?しかし私の人生は今までの所、初期のころ(幼稚園~小学校低学年)が最悪で、だんだんましになってきている。この傾向が続きますように

小、中学時代は物作りが好きだった。最初は2歳頃からの粘土遊びにはじまり、木材で船を作ったりプラスチックモデルの戦車や飛行機 - - - しかしそのうち実用的な鉄砲などが多くなった。ゴム式の小石投石銃?みたいなのが近所の年長の子供たちの間で流行っていた。また傘の心棒(管)を加工して銃の形にし、火薬を詰めて鉛の玉を入れて飛ばす火縄銃みたいなのも人気があった

ただし火縄での着火ではなく、外に置いた火薬を撃鉄でたたき爆発させ、その火が小さい穴から筒内の火薬に伝搬する形だったが。今思えば火縄の方が簡単で命中精度も良かっただろう。撃鉄式は手元が狂いやすい。外部の着火用火薬も風が吹いたり乱暴に動かすと飛んでしまう

小学校高学年になると高校応用物理の教科書が何とか読めた。そこで見た誘導コイルに強い興味を持った。何しろ乾電池の数ボルトの電圧を1万ボルト以上にできるというのだから当時の私にとって「スゴイ」と思わせるのに十分だった。

そこでラジオやスピーカを壊した部品で似たようなものを作り3000v位(約3mm程度のギャップを放電できた)は発生できた。これを持って魚採りに行ったが、魚は一瞬気絶するものの、すぐに回復しなかなか捕まらなかった。今思えば電源が乾電池だったからむりもない。鉛バッテリーを入手する力は無かった。しかしそんなものを手に入れていたら感電死していたかもしれない

鉄砲遊びや電気ショックでの魚とりなどができた昔はおおらかだった。今の世の中でそんなものを作っていたら補導,逮捕されているかもしれない

中学校になると天体望遠鏡を手作りしたり、卒業テーマでは自動販売機を作った。そのころは田舎なので何も部品類は手に入らず、本当の手作りだった。リレーも釘にコイルを巻いて手作りした。だいたいリレーという物の存在すら知らなかった。装置を動かす上で自己保持させる必要が生じ、釘にエナメル線を巻いてリレーらしきものを作っただけ。自動販売機の設計的な事も当時は現物すらほとんど無く、書籍の情報も全く無かった。だから構造もゼロから考えた。これらは物づくりに関して良いトレーニングになったと思っている

しかし今思えばある意味危険な子供だったとも思う。爆弾作りや鉄砲作りや毒薬の方向に強く興味を持たなかったのは幸いだった。もし強い興味をもっていたら、その方向に突っ走りかねなかった。つくづく子供の育て方は難しいと思う。

高校進学は家が破産に近い状況だったので大学に行かないコースを選んだ。津山高専の電気科を希望して受けたが落ちた。競争率も5倍以上で成績的にも届いていなかった(得点125点あたりが合格ラインなのに私は110~115点程度)のでさほど気にしなかった

このとき私の中学校からは4人が高専を受験した。そしてパスしたのは1人だけだった。田舎の中学校だったので高専に合格できる者は稀だったので、スゴイと思った。

しかしこのうらやましい1人は、卒業後自殺してしまった。その高専は非常に厳しい学校で落第することは珍しくなく、自殺者も多かったらしい。落第は多いときはクラスで一度に7人が落第したこともあると聞いた。実際に同じ下宿の高専生は落第をくり返して退学になった

彼の自殺の原因はなんだったのかは知らないが、卒業後すぐの自殺だったようで、 学校が厳しすぎた、というのは関係ないだろうと思う。性格がまじめすぎた為か? それとも厳しい環境で燃え尽きたか。それとも想像できないような困難にぶつかっていたのか?還暦をすぎたということで同窓会があったが、詳しい情報は聞けなかった。

しかし近所の同級生の女性が亡くなっていたのには驚いた。本当の幼なじみだからぜひ生きていてほしかった。  それ以外にも私の天敵?みたいだったやつも亡くなっていた。亡くなった人が結構多いのに驚いた

私の第二志望の津山工業高校電気科はかなり良い成績で入学できたようだ。そのころの津山工業はかなりレベルの高い学校だった(合格点が85程度)。特に電気科は岡山県北部では2番目のレベルだったらしい。しかしその後、職業高校は大きく人気が低下したが - - -

高校時代は非常に刺激的だった。ずっと同級生だった竹内さんと同じ下宿に住んだが、そこに高専の先輩 (先に紹介した退学になった人とはちがう優秀な人) がおられ、 強く影響を受けた。学校にも中学時代にはいなかった種類の人間が多くいた。しかもレベルが高い。アマチュア無線やオーディオに凝っている人たちには特に興味があった。私もオーディオにはまってしまい、大型スピーカをつくってみたり、真空管式(当時は真空管が主流だった)のアンプや違法AM放送機?を作って放送局のまねごともした。1~2km程度は飛んでいた

色々やったが、バカの最終形は大型3極真空管(放送局用)を16本使った真空管式OTL(アウトプットトランスレス)アンプだろう。とことんこだわってA級動作の直流アンプ方式にした。しかしそれで音楽を聞いてみると安いトランジスタアンプと同じ様な音にしか聞こえなかった(私の耳がそれほど高級ではなかったこともあるだろう)。それなのに真空管式アンプは500wも電力を食い夏はとても暑い。鍋をおけば煮物ができるんではないか?と思うぐらいだ。サイズも500×500×200くらいある

それに直流アンプにしたものの安定性が悪いのでスピーカーのコーンがだんだん前後に移動するのも補正調節が大変だった。真空管式のある種の魅力というのは、たぶんグリッドその他の固有振動によるエコー効果だったり、出力トランスによる低域カットや低いダンピングファクタによる柔らかい音質が「良い」と勘違いしていたんだと思う。がっちりした放送局用三極管で直結方式にしたのでは真空管式の魅力がなくなり、物理的には優れた増幅器ができたというだけの事だったのだろう

だから馬鹿らしくなって止めた。その後は時代に取り残されないように、新しい物に取り組もうと思ったりした。トランジスタ,ICに移行すると真空管は過去の遺物以外の何者にも見えなくなった。特にそのころ出回りだしたICには興味がわいた。OPアンプICの709や714でよく遊んだ

そのころトランジスタパワーアンプの出力をコンデンサレスにする方法としては2電源が必要だった。そこでトランジスタ4個をブリッジに組んで1電源でコンデンサレスにする方法を思いつき、大発明だ、と思って大騒ぎしたが、数年後の雑誌に紹介されていた。BTL接続と呼ばれ、こんなことは当たり前の事だったようだ。その後この接続方法は低電圧で大出力が得られるので自動車用パワーアンプとして多用されていた

高校時代のもう一つの思い出はクラブ活動。物理部とテニス部とギター同好会をうろうろしていた。ギターはそこの部長のテクニックをみて、私には才能が無いことを痛感した。テニス部は運動能力がゼロに近いのは自覚していたが、何となく入ってしまった。これは中学校で何となくテニス部に入ってしまったためだろう。何故中学校でテニス部に入ったかと言えば、自分の運動能力をもう少し改善しないとだめだろうという思いがあったのと、我が家に古いラケットがあった事だろう。多分叔父さんあたりがやっていたものと思う 

しかし高校のテニス部は死ぬほどきつかった。私は運動能力は低くても体は丈夫。容易な事では死にそうにはならないが、炎天下、水も飲ませてもらえず何十回もダッシュをやらされたときには、本当に死ぬかと思った。多分本当に死ぬ寸前だったんだと思う。そのとき死んでしまえば終わりだったが、何とかそれを乗り越えたのは、その後の人生に多少の役には立ったと思う。何事も悪い面ばかりではない。しかし他人には勧められない(死んだらどうする?もともこもない!と言う問題)

しかしテニス部は1年以内で辞めた。朝練,昼練,放課後練,休日練。雨の日は恐怖のシゴキ - - - こんなことをしていては他に何もできないではないか。 ここの部長は部員が何のために高校に行っていると思っているのだろうと疑問だった

物理部では色々あそんだ。3学年では部長をやらされたが、全く資質に合わなかった。かなりムチャクチャで無責任なことを数多くしてしまった。そのころの部員のみなさん、先生方、たいへんご迷惑お掛けしました

下宿のおばさんたちにも大変な迷惑をおかけしてしまった。だから津山の町にはいまでも行きたくない。津山での思い出は恥ずかしい事がいっぱいだ

私は性格は悪くない、と強く主張したいが、やはり妬みもあるし他人の不幸は蜜の味だったりもする。他人の幸せを本当に喜んであげられる人は実在するし、その様な人を私は尊敬する

私はといえば上記以外にも他人の親切を当たり前の様に受け取っていた事も多かったし人に迷惑をかけていると認識できない困ったちゃんでもあった。友達がいも全然無いので、私を友人にするメリットは全く無いだろう。人の苦しみや不幸にもほとんど無関心だ。それでも相対的に見ればたぶん性格はそんなに悪いほうではない。 特に裏表はほとんどない!→ 精神構造が単純なんだから裏表のある人格なんて高度な事は出来ないというのが真実

高校卒業が近づくと進路を決めなくてはならない。そのころの津山工業高校電気科の求人状況はすさまじく、求人倍率はたしか100倍か1000倍あったように思う。そのころ既に都会の工業高校はレベルが下がっていたが、田舎の工業高校は生徒のレベルが高いという評価だった

だからどこでも希望したところに学校から技術者として推薦入社が得られる状態だった。例外はソニーとか日本IBMくらいだったと思う。津山工業電気科で人気の高かった就職先はシャープだった。進路指導の先生によれば、シャープは定着率が高いということで、人の扱いが良いのだろうということで推薦されていた

私には希望内容に近いということでウシオ電機と堀場製作所を勧められたが、近いという事でウシオ電機を選択した。 今にして思えば堀場製作所に行っていた方が正解だったかもしれないが、人生にIFはない。堀場製作所を選ばなかった原因の一つは名前かな?堀場なんて土方さんみたいだ、とかその時は思ってしまった。しかしそれを言えばウシオ電機も牛のシッポだから最低だけどカタカナ表記だったからマシだった

ウシオ電機では最初は技術部の試作係に配属された。ここでも全く他人を無視した行動ばかりしていた。先輩の横内さんや有川さん達には本当にご迷惑をおかけしたと思っています。人の立場を考えたりする能力が無かったし、サラリーマンとしての責任感,自覚なんて全くなかったですから。とにかく好きな種類の仕事をしたい!というだけ。単純といえば単純。給料の額なんて2の次、3の次 - - -

でもこのころの先輩方はとても面倒見がよかった。毎週の様に誰かに姫路の町に連れて行かれ、食事などをおごって頂いた。仕事でも私のしたい仕事ができるように苦労して下さった。今から思えば感謝感謝です。でもそんな人たちをある意味裏切って5年後にはある上司に誘われるままに独立してしまった事は厳しい人生の選択だった - - - などといえばかっこいいが、実際にはそんな深い考えも無しに気ままに「おもしろそう」というバカで単純な価値観だけで行動しただけだった

私の未成年時代はここで終了

私という人間を一言で出来るだけ理解してもらうには、「実年齢の1/2程度の精神年齢だ」と理解してもらえばよいだろう。高校を卒業してU社に入ったころは小学生レベルだった。だから周囲に大迷惑をかけた。先輩がたも小学生が入社してきたようなものだから面食らっただろう。現在は63歳だが、精神的にはやっと30歳を過ぎた程度で、言動が少し大人になってきたかな? しかしまだまだバカだ、 というレベルだろう。 いまだに私を良く知る人からは小学生の面影が残っていると言われる

現在の私の仕事(会社) http://www.fintech.co.jp




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